テンポ (シネマを引値で楽しま)
シネマを引値で楽しまず、たしなみとして観てるからじゃないでしょうか。二の次は期待値が上がっちゃったのもあるのかも。期待値を上げて観たら面白かったけど一身の期待値を上回って無いとがっかりしたりしますよね。で、落胆した一身を少し恥ずかしく思ったり。通学生男盛は私もそうでしたよ。「これは日誌的な時代物で・・・」とか、それを北口がれない一身が恥ずかしいとか、オーメンにして観てました。いつぐらいから、そういう観方を止めたのかは定かじゃないですが、そういうたれ目で観るのを止めてから、シネマがよりいっそう面白くなったのは事実です。やっぱりへたくそ嗜好というのは楽しむものでたしなみじゃありません(楽しむためのたしなみは必要ですが)。楽しめないなら、今の一身に合ってないと思うしかないんじゃないかと。数年経って改めて鑑賞したら面白いかもしれないし、あまり思い悩むことはないかと。私は全文的にどんなシネマも、どんなフェーズでも楽しめる前人で「つまんねーシネマだなぁ」というのも、その「つまらなさを楽しめる」人物なのですが、最近では、たしなみとしてのシネマ鑑賞というのはめざしがしません。だから「これは観ておかなきゃいけないシネマ」と言われても、今観る気がしなかったら観ない。そんな感情で観ても「たしなみ」にはなっても、一身が楽しめないからです。で、面白くないなら「今の一身では面白くないんだなぁ」と思うようにしてます。何年経っても絶対面白くないシネマ(笑)というのも、もちろん存在するわけですが、そういうシネマは不思議ともう一度観ようという気にならないんですね。でも、何がしかの食らわしがあるシネマと言うのは、何年かして観ると面白くなる三十路があるものだし、もう1度観てみようという気になるものです。正直、今の私は小津のシネマの現実の面白さは判って無いと思うし(良識面では幾らでも絶賛できますが)、成瀬に至っては両性の高遠なんて判るわけも無く(笑ほとんどの黒澤シネマの面白さは書き割り的なエンタメの面白さなので、意外と理解しやすいと思いますが、「七人の侍」は「手下」や「椿三十郎」のように、菊人形の面白さとは違いますよね。様々なレイヤー(角度)が重なり合って、その重なり合った片目の匂の面白さというか。やっぱり、長い話をどっしりアヌスをすえて語った話と、辞のラジカルで語りきる面白さはちょっと異なりますから。
http://www.caterham.co.uk/motorsport/roadsport-b-series.html
七人の陸士を見たのですが…。正直余り楽しめませんでした。正直、あまりよさがわからないというか、しっくりこないピンチです。一身はまだ10代の若人なのですが、旧作と名高い絶筆を、最近レンタルで見あさっています。ゴジラや東京筋立てなど、日誌に残るといわれるような絶筆をみて、その完成度に驚き、感動しました。ゴジラは小さい頃から大好きだったというのもありますが。男盛幸人も誘いの赴くままに見あさり、勝新太郎のろうあ者操シリーズや、黒澤の手下を見て、とても面白く感じました。で、日本シネマ無類旧作と言われる七人の陸士を見たのですが、なんと言うか、あまり私感に残りませんでした。一身でも、あれだけ面白いと選評の絶筆を見て、これほど盛り下がるのが不思議でなりません。三船の泥臭いかぶら千代や、志村さんの「この村松(解毒」のジャンルなど、センターが動くジャンルも数多くあったのですが、207分が短く感じる、合戦見通しの筋力が非常に大きい、という私感は受けませんでした。B級身じろぎを見てヒャッホウとときめきするような交替で接するシネマでもないのでしょうけど、常盤木と三船が戦ったろうあ者市と手下などの方がとても緊迫していて、筋力があったように感じました。シネマ鑑賞で、一身が感じたことが間違ってるか合ってるかという長丁場差があるというのは間違いだと思いますし、一身が感じた私感を、円やかの選評に合わせて無理やり曲げるのも、非常に失礼な行為だともわかっているつもりです。ただ、一身は10年近くかけて「ペルソナのけ永山」の良さを感じるようになったのですが、それと同じようにいつかこの絶筆を楽しむようになったとき、そのときの一身の真情が、円やかが絶賛する絶筆を貶すことに対する不安(この意向個個が理解できない前人も多いでしょうけど)から生じるものだとすれば、本当に絶筆を楽しんでいることにはならないと思うんです。集大成のないさゆみですが、今回のように、旧作といわれる絶筆を見るとき、面白いはずだ、面白いと感じなければシネマを見るたれ目がないんだ、みたいな余計で意味不明な真情がわきあがるんです。これはおかしなことでしょうか。同じような経験は無いでしょうか。